第10回受賞作品
ご応募いただいた作品の中から審査員による公正かつ厳正な選考を経て、絵画・写真・絵手紙部門よりそれぞれ最優秀賞1作品と優秀賞1作品、入選2作品を選出させていただきました。


ご応募いただいた作品の中から審査員による公正かつ厳正な選考を経て、絵画・写真・絵手紙部門よりそれぞれ最優秀賞1作品と優秀賞1作品、入選2作品を選出させていただきました。
ここから先は日本イーライリリー株式会社のウェブサイトではありません。 このままページを表示する場合は「続ける」を押してください。戻る場合は「戻る」を押してください。
「あれ」20年前にステージ1の乳がんの手術をした後が少しひきつるような、傷痕が今頃痛み出したのかと思いました。4、5日もすると寝返りも打ちにくい程痛みが増してきました。69才の夏でした。
結果、左肺の扁平上皮癌でステージ4の診断でした。脳に転移有。よっぽど癌体質なのかと思いながら、主治医の話をきくと見通しは悪そうでした。父も肺がんで亡くなっているし。高齢の母もいる、4人姉弟の長女として母の精神的支えになっていると自負していたのにと思う事もいろいろ出て来ました。しかしガンマナイフで脳の転移も消え、新治療の免疫療法も良く合って、1年間は病気を忘れて生活が出来ました。今は次の治療で放射線と抗がん剤の投与を受けています。掛かったものは仕方ありません。髪も大分薄くなったけどこれはスカーフでいける。自分で言うのも何ですが少々打たれ強い性格もあってか、そんなに落ち込みもいまのところない。
病院の食事も残さず食べ、手洗いうがいもちゃんとして、新しい治療にも期待していこう。15年も通っている絵画教室にもいこう。車の運転もまだまだしたい。新しい料理にも挑戦したい。今までお祈りなど真剣にしていなかったがこの礼拝堂の色々な窓の形と光をみてきれいだなぁ何だかありがたいなぁと言う気持ちで絵を描きました。
心配してくれる夫、子供達に感謝して。
生きていれば、こんなに楽しい経験が出来る。治療を乗りこえれば、自分の意思で行動することが出来る。たとえ腎臓が無くなっても身長が止まっても、目が見えなくなっても、生きてさえいれば新しい治療が開発されるかもしれない。命を繋ぐことが今の娘にはとても大切であることを感じてもらいたい。そう考え、私達夫婦は当時3歳だった娘と話し合い、転院を決意しました。
この写真は、今年1月に名古屋から金沢へ転院をする前日に“病院に行く前にご挨拶していこう”と、石川県内の白山神社で撮った1枚です。
カメラに写った娘の真剣な表情に息をのみ、癌と対峙する娘の想いが伝わりました。私は、祈ることで、身と心を引き締めることの大切さを、この時の娘の姿から学びました。
娘の体は治療により抵抗力が落ちているため、外出がかなり制限されています。そんな中、娘が見つけた楽しみが、朝早くに神社へ赴き、鳥居の前で一礼、手水舎で手を清め、参道の端を歩き参拝。その後でおみくじを引き、好きなおまもりを買うことでした。
今では娘の“おまもりコレクション”は20を数えます。
再発すれば助からないと言われている病気です。体の中で癌と闘う“NK細胞”は、笑うことで攻撃力を高めるようです。娘の、今この瞬間を笑顔にしたい。この先の人生で笑顔を増やしたい。家族でいつも笑っていたい。そんな想い出をこの先もずっと作り続けていきたい。そんな願いを実現させられるように、私達はこれからも病気と闘います。
満開の桜がトンネルの様に咲き乱れていた。
「お弁当持って来年も花見しようね。」 大好きな母との約束。
桜が散り終わった頃、母のガンが分かった。苦しくて、つらくて、たまらなかった。ただただ泣いた。家族みんなで泣いた。
「悲しませてしまったね。ごめんね」 いつも私や父・姉を気遣う母。
…母はどんな気持ちで ガン と向き合っていったのだろう。
あれから手術をし成功したが、半年経たない間に転移が確認された。 ああぁただただ 絶望――。
「もう手術はできないって。」 サラッと母は言う。
「私の病気の事で、あんたが仕事辞めたりしたらあかんよ。大事にするんよ。」 強くて優しい私の母。
…時々見せる気丈さが、本当は反対の事を思っているんじゃないかと思う。
それから毎日、昼と夜のお弁当を作った。仕事が終わると夜のお弁当を持って母の病院へ。
「おかえり。今日は何かあったの?」 優しい声で毎日聞いてくれる。
「お弁当おいしそう。卵焼きにちょっとお出汁をいれてみたら」 いつもと変わらない会話。
…毎日毎日 母からパワーをもらう。私が母に元気をあげなきゃいけないのに、私が毎日元気をもらっている。
「ガンでも良いことがある」 母の言葉にはパワーがある。
…まだまだ生きていて欲しい。
家族みんなで母のお世話する日々になってきた。
「みんなが私のわがままで動くのを見るのが楽しいわ」 しんどいはずなのに、面白いことを言って私たちを笑わせる母。
…もっともっと、母と共に生きたい!家族で笑いあいたい。
でももう、母からの言葉はない。
ガンと分かってからの毎日は、つらく・悲しく・苦しいはずだったのに、何故だろう…。かけがえのない毎日だった。あの毎日が大事で大切で、母に感謝ばかり。母のやさしさ・言葉・ごはん・笑い・思い出、全てが私の中にある。
『ありがとう。お母さん。大好きだよ。 ねえねえ 桜の季節がまた来るね。』
「残念だけど、治療が必要かもね。」2018年桜の花が咲く少し前の頃、私は乳癌という病名を告げられた。
胸の異変に気付いたのはその半年前。子供の受験を控え、新しい仕事の予定も順調に決まり「これから!」という時だった。今まで健康には自信があった私は「まさかね…」と日々の生活の忙しさに追われ病院へなかなか行けずに時が過ぎてしまっていた。
告知を受け、一瞬で目の前が色のない世界に変わってしまい、今ではどうやって帰宅したのかすら思い出せない状態。1週間後に検査結果を聞いた時は、手が震えて書類にサインができなかったのを覚えている。まだまだ元気に動き回れる!と思っていた日常が当たり前ではなくなり、子供や家族のこと、この先の事を考えると不安と恐怖で涙が溢れ毎日泣いてばかりいた。そんな時「絵は家でいつでも描けるでしょ。この為に絵と出会ったんじゃない?」と子供に言われたことで、後に私は救われることになった。
すぐに治療は始まり、薬の副作用で横になることも増えたが、家族、友人の優しさやサポートで、家事や仕事も体調をみながら今までのような日常を過ごし、更に大好きな絵を描くことで治療も乗り切れたのだと思う。
絵を描いている間は不思議と病気のことを忘れられたし、以前の様に元気な感覚になり力が湧いてきて、先生も驚くほどに薬の効果を感じることもできた。
これは、自分が当たり前と思っていた場所(日常)は、実はクジラの様に大きな愛(家族)の上にあり、顔を上げてみれば七色の樹(優しさ)に守られ、寄り添ってくれている鳥たち(友人や大切な人達)に囲まれている特別で幸せな世界なんだという想いを込めて描きあげた。
当たり前の日常が実は奇跡の連続で、隣に笑っていられる大事な人がいることがどれ程幸せな事か、病を機に本当に大切な事に気付かされた。今後は再発の心配を抱えながらの日々だが、感謝を忘れずに思い切り生き抜いていこうと思う。
2年前の仲冬の候
検査結果を聞く為に病院へ行くと
普段人が溢れかえっている待合室には誰一人患者さんがおらず不安が過った…。
診察室に入ると主治医から検査結果の話を伝えられた。
まさか自分が…、
私が癌に…?
気持ちは漠然とし途方に暮れ
自分の事なのに他人事のように話を聞いていた…。
癌という病気を受け入れるまで長い時間がかかった…。
闘病生活に向けて沢山の大きな決断を迫られ17年間連れ添った大切な家族(ペット)との別れは自身の病よりも辛く「癌」と言う病を心の底から憎んだ…。
家族(ペット)との別れで辛く寂しい日々が始まり
治療の副作用も容赦なく私を襲い
趣味のカメラも手にする機会が減って行き何度も何度も「もう死んでもいい…」とつぶやいた。
闘病生活を終え社会復帰出来た時は物凄く嬉しくて
出社して、皆んなと顔を合わせ一つの空間で皆んなと仕事が出来る。
当たり前の事が物凄く嬉しかった。
仕事中友人がポケットからこっそりくれるお菓子に思わず涙が溢れそうになる時もあった。
幸せって心の持ちようでこんなに違うんだ。なんて事も恥ずかしながら癌になって気がつかされた。
治療と、心の苦しみを乗り越え
少し成長できたのかな?そんな気持ちにもなれて闘病生活に入る前には憎んでいた癌だったけれど今となっては病気によって学ぶ事もあり以前より前向きな気持ちになったのではないだろうか…。
最近になり少しずつですが趣味の撮影意欲も湧いてきて絶景に出会ってきました。
毎日足を運んでも思うような写真を撮らせてくれない場所ですが
この日は雨上がりの後で朝陽が昇る数時間前の様子
街明かりにベールを被せたような素敵な光景を収める事ができ
好きな事が出来る喜びの感覚も少しずつ取り戻せてきている今に
命の有り難さを感じています。また癌になる前の自分を取り戻す事ができたら。そんな思いで1日、1日を大切に過ごし自然の素晴らしい景色に出会え
写真に収められる今に喜びと感動の気持ちが蘇り今生かされている今に感謝
毎日運動を欠かさずしてきた自分に突如襲って来たのが、想像も付かないからだの変化でした。筋肉を付けるのにダンベルを使っていた時のことでした、体中が怠くて思うように動かすことができませんでした。
思いあたらないところにも痣が見つかり不安にもなってきました。近所の病院で血液検査を受ける事にしました。
白血球の数値が異常に高い事が分かり別の病院を紹介してもらい再度検査をしたところ血液の病気です。分かりますよねと言われました。
早目に入院して治療した方がよろしいですよ、と言われ、気持ちが動転し、何だか分からないまま入院しました。骨髄液の検査では、腰にある腸骨に太めの針を刺して、骨の中にある骨髄組織をとる検査でした。凄く痛くて何か魂を吸い取られた気分でした。その後、異常が見つかり、病名が急性骨髄性白血病と言う血液の癌に掛かっていました。
放射線治療と抗がん剤を最大限行った後、私の体力は消耗しきってしまいましたが、2ヶ月後に骨髄バンクから私と同じ白血球の型のドナーが見つかり骨髄移植の日が決まりました。移植日、私の体には、ライフラインがたくさん繋がられてて、新しい命が入って来たのが感じ取れました。
パワーアップし生き返った瞬間でした。造血幹細胞移植が無事完了しました。その後ドナーさんとの合併症では、免疫力の低下、下痢、食欲不振がありましたが、完全に生着するまでは時間が掛かりませんでした。
私とドナーさんとは相性がとても良くて、毎日仲良く楽しく過ごしています。
10年前に子宮頸がんになったとき。
息子を保育所に送った後、車のラジオから子どもが小さい頃大好きだったアニメのマーチが流れてきた。パンチの効いた歌声が心に真っ直ぐ刺さり、我慢していた涙が溢れ、大声で泣きながら歌った。子どもたちのために生きると誓って。
9年前に乳がんになったとき。
半年前には異常はなかったのに、自分で見つけた腫瘍。俄かに信じることはできなかったけれど、腫瘍はすでに大きく1週間後には手術を受けた。衝撃には耐性ができていたのか、2年続けてがんになるなんて不思議だった。術後「ひょっとこ」のように曲がってしまった乳房を鏡で見たときは可笑しくて、そして初めて泣いた。
2年前乳がんが再発したとき。
初発の手術でリンパも取り、放射線治療も長いホルモン療法も予定通り終わっていた。もうがんは治ったのだと思うくらいすっかり安心していただけに、感じたことのない恐怖が一気に私を襲った。ああ、これががん患者ということなのだ。でも子どもたちのために絶対死なない。それだけを願い病院を出た、ふと見上げた真っ青な夏空には、大きな鳳凰のような雲。こんなことってあるんだ。私を護ってくれるようだった。
そして今。
乳房を取り、いくつもの抗がん剤をしたけれど、今でもどこかにガンは隠れている。終わるはずだった抗がん剤治療はエンドレスになった。それから1年近く経ち、仕事と両立してきた体も心もくたくたになってきた。何を目標に進めばよいのか気持ちを保つのも簡単なことではない。そんなとき出かけた先で、山の中から今生まれたばかりの鮮やかな虹が目の前に現れた。虹は「勇気を出して、一度きりの人生を楽しんでごらん」と、次の何かへ私を導いてくれているのかなと思えた。
そうだ。困ったときにはいつだって、私が上を向けるよう、前を向けるようにと神様が贈り物を届けてくれている。だからきっと大丈夫。どんなことがあっても大丈夫。
「あの鳥はファミリーかな…」と、浜辺をチョコチョコと歩く鳥たちを見ながら主人は言った。
2015年の冬の寒い日、乳ガンの告知を受けショックだった。が、これをきっかけに主人と口喧嘩して家を出て行った娘が帰って来た。手術の日には同棲している娘の彼が来てくれた。私は娘と連絡を取り合っていた。彼とも何度か会った事もあったが、主人はこの日が初対面だった。私は手術台で横になって、この後どんな会話をするのだろうと想像し少し愉快な気持ちで麻酔が効いてきたのを覚えている。
娘と彼は結婚する事になった。私が次の治療の抗ガン剤が始まる前にと早々に両家の顔合せを済ませ、秋の結婚式の日取りも決まった。とんとん拍子に進んだ。乳ガンになった事は大変だったが、良い事もあるのだなと思った。
いよいよ抗ガン剤が始まる前日、インターネットで調べて怖くなった。夜中ずっと読んで朝が来た。私は病院に行き「頭の中ではわかっているのですが出来ません。スイマセン。」と泣きながら婦長さんに言った。その日は抗ガン剤を受けず一旦家に帰り、仕事中の主人に電話をした。「わかった、君の気持ちを尊重する。」と気持ちを受けとめてくれた。次に娘に電話をした。「私の結婚式を目標に抗ガン剤受けてよ!」と泣いているような怒っているような言い方だった。二人とも表現は違うが優しかった。二週間後、抗ガン剤を受けた。やはり抗ガン剤は辛かったが、あの日泣いて弱さを見せた事で、主人も娘もチームワーク良く私をサポートしてくれているように感じられた。後残り3回の抗ガン剤が終わった頃、娘の結婚式が待っている。浜辺のチャペルで結婚式を挙げるのだ。
この心境は2016年の夏です。現在は抗ガン剤・放射線治療を終え定期検査と飲み薬です。娘夫婦は近くに引越して来て孫(8ヶ月)も生まれました。
私の家族は、8年前に長女が産まれたのを機に、毎年近所にある神社の桜の下で家族写真を撮るのが恒例行事になっている。
写真を撮り始め2年後に次女がダウン症候群で産まれた。気持ちも不安定になり「家族写真なんて」って思った時期もあったが家族で乗り越えて撮り続けた。幸せに暮らしていたのに…初めて神様を憎んだ。2年前に私は、舌癌宣告を受けた。そこから生活はがらりと変わった。夫は仕事をしながら家事、育児を背負ってくれた。同時に私の壮絶な病気との闘いも始まった。手術、抗がん剤、放射線、やれる事はすべてやった。一年間の入院生活は想像以上に過酷だった。体調は不安定となり毎日、痰に苦しみ咳き込んで眠れず呼吸困難になり、緊急気管切開した。今も、気管切開した状態だ。そして声を失った。舌も全摘し食事もとれない。食事は一生、胃ろうに頼るしか道はない。今思う。好物のオムライスを飽きるまで食べておけば良かったと。
声を失い、食事も取れない生活は想像以上に辛い。でも私を支えてくれる家族がいる。筆談での会話だが、いつも気にかけて聞いてくれる。今の時代、背を向けての会話を目にするが私の家族は必ず瞳と瞳を見ての会話が出来る。でも一つ願いが叶うなら、もう一度だけ声が欲しい。夫に随分伝えていない「愛してる」を言いたい。長女と学校の話をしたい。次女に絵本を読んであげたい。長い入院生活で精神的にも病んで、もう家族写真は無理と諦めていた。しかし、家族の支えもあり、一年後桜の下で家族写真が撮れた。
今年もきっと家族写真を撮るだろう。今年は家族全員笑顔で前を向いて。
病気を背負っているが明るい未来へ向かって家族と共に一歩一歩歩んで行きたい。
今から7年前に初めての妊娠、ずっとほしかった赤ちゃんがお腹にいるときに「癌の可能性があります」と産婦人科の先生から伝えられました。治療は、進行していないだろうということで出産後に行われることになり、それから約6ヶ月後に息子が生まれました。
生まれてからは初めての育児と睡眠不足でくたくたでしたが、病気のことはずっと胸の中にあり、もし手術後に悪い結果がでたらこの子が大きくなるのを見届けてあげられないかもしれないと寝顔を見ては泣いていました。
息子が6ヶ月になる頃、産婦人科で一番大きな手術を行うことが決まりました。自分の体なのに、何が起きているかわからない不安、痛みよりも、この先が見えない気持ちで入院中も泣いていました。二週間の入院で力をくれたのは、両親から送られてくる息子の写真でした。私にクヨクヨしないで、頑張って!と思えるような笑顔ばかりでした。
「あなたがいたから。」
今日も明日も大好き。貴方が教えてくれた病気、命の恩人であり、かけがえのない我が子です。
かつて、たった数通ですがやり取りをしていた青年がいました。あなたの絵が好きだ、と、はじまりは唐突でした。彼とはSNS上のやり取りがきっかけで、当時私は大好きな絵の道に進もうか悩んでいました。すると、彼は絶対に諦めない方が良いと何度も励ましてくれました。やがて、彼は、自分が現在25才で、1年前に癌が見付かり自宅に居る事、もう助かる見込みがない事を明かしてくれました。私は絶句し、しばらく音信を絶ってしまいましたが、数日後に“あなたの絵を直に見たい”と彼から連絡があり、私は一枚の絵を描いて送りました。彼は、“これから返事を返せなくなるかもしれないけれど、この絵を見て元気をもらいます”と言い、それが最後のやり取りとなりました。今、私は彼と同じ25才になり、絵の道に進んでいます。彼にこの姿を見て欲しかった。だから、この絵をあなたにささげます。
数ヶ月前に母方の祖父が、足がむくんでることが気になり病院へ行きました。色々と検査した結果、肝臓がんの末期でした。おじいちゃんはタバコやお酒もやらないとても健康な人で、人と関わるのが大好きな明るい人でした。おじいちゃんは緊急入院となりましたが、年齢的にも治療のほどこしようがなく、今は痛みをとめてあげることしかできないみたいです。お見舞いに行くとおじいちゃんはぐったりしていたけど、孫の私の顔を久しぶりに見て喜んで笑ってくれました。私自身も持病があり、おじいちゃんはずっと心配してくれていたようで、元気そうな私を見て喜んでくれました。おじいちゃんは終始「家に帰りたい」と言ってました。私もその姿を見て心から「帰してあげたい」と思いました。家に帰れるかはまだ分からないけど...おじいちゃん!!おじいちゃんを待ってる家族はここにいるからね!!いつでもおじいちゃんのことを「おかえり」って待ってるから!!だから少しでも良くなるように...おじいちゃんがんばって!!おじいちゃんがずっと家の中で座ってた椅子ずっとずっと置いておくからね。
3年半程前、掛かり付けのクリニックで「乳がんなので、総合病院に行くように」と言われました。手術も化学療法も拒否し、緩和ケアを受けたいと申し出ました。
家に戻り、家族に話しをすると大反対を受けました。2人の妹と末妹の夫の4人は、それぞれに治療を受けて元気になってほしいと訴えます。末の妹は「手術でも化学治療でも何でもして、もう少し皆で楽しく暮らそうよ」と言っていました。
どうするべきか揺れる心で紹介された総合病院を改めて受診する日、私を一人で行かせて緩和ケアを申し込まれては…と思ったのか、妹2人が付き添ってきました。家を出るときには降っていなかった雨が、地下鉄を降り、地上に出ると雨が降っていました。
私一人傘を持たずに家を出たので、近くのコンビニエンス・ストアでビニール傘を買い、病院に向かいました。
病院に行く道々には、梅雨を彩る花々、あじさいやくちなしが咲き誇っていました。
クリニックから紹介された医師に会い、診察を受けました。「間違いなく乳がんですね。
でも、手術と治療でもとの元気が取り戻せますよ」の一言に、妹たちは手術をする方向でどんどん話しを進めてゆきました。
結局、妹たちの思いを受け入れ、手術を受け入れることになってしまいました。何と私は意志が弱いのだろうという思いと共に…。
それから3年程が過ぎ、乳がんの肝転移が見つかり、再び抗がん剤治療を受けることになりました。
家族は何くれとなく気遣い、あれやこれやと世話を焼いてくれます。何と幸福なことだろうと、日々感謝の思いでいっぱいです。
できるものなら近い将来、かぜ薬ならぬ、「がん薬」ができ、1日3回1週間服用すれば、がんが治りますよという時代が来るようにと願って止みません。
早朝の誰もいない公園。ブランコに乗る娘の背中を押す。2年ぶりのブランコに娘は大はしゃぎだ。楽しそうに笑う娘の声に、思わず背中を押す手に力が入る。
2018年1月、当時3歳だった娘に癌が見つかった。遠隔転移あり。ステージ4。私たちは娘を失う恐怖とその未来に絶望した。
癌が見つかったその日から娘の入院生活は始まり、妻は病院へ付き添った。賑やかだった毎日は一変し、買ったばかりの広い家には静寂が訪れた。
入院生活が始まると、娘は毎日のように「おうちにかえろう」と妻にせがんだ。私たち家族は、一緒の布団で眠る事が出来なくなり、点滴が繋がった娘は自由に走り回る事も出来なくなった。
3人で抱き合いながら涙を流した日、娘が私たちの頭を抱えながら「大丈夫だよ、ちーちゃんいなくならないよ」と言った。私たちはその時、癌と闘うこと、娘の命を守ることを強く決意した。
闘病生活は、想像を絶するほど過酷だった。抗がん剤の副作用で、生まれてから一度も切ったことのない長い髪の毛は全て抜け落ち、伸びて行くはずの身長は止まり、体重は減る一方だった。「公園で遊びたい」とただただ当たり前のことを願う娘の強い意志と、「後悔だけはしたくない」と病気や薬、治療のことを熱心に学ぶ妻、そして多くの方々のサポートのおかげで、約1年10ヶ月の闘病の末、2019年11月に本退院を迎えることができた。
この写真は、ただの当たり前の日常かもしれない。しかし、私たちには毎日訪れる奇跡の1枚である。この写真や娘のこれからの人生が同じ病気と闘う子ども達の希望の星になることを願う。
始まりは本当に小さい事でした。耳の脇の違和感、ただそれだけだったのに。それから私と癌との付き合いが、(6年前から)始まった。病気がわかってからは病院の方々や家族と一緒に沢山のことを乗りこえてきた。今となっては、命を見つめ直す私にとっての大切な時間だったような気がする。
まだ、一月初旬というのに蕗の薹が土の間から小さな芽を出している。この時期は今迄一度だって、こんなことはなかった。そして、この数日の出来事が頭を過る。
私は、一月のはじめに大切な妹を失った。妹は、看護師という仕事柄、健康に気を使っているように見えた。妹はいつも元気が取り柄だからと笑っていた。それなのに、あまりにもあっけなく、この世から去ってしまった。私の方が見送ってもらうつもりだったのに、私の病気がわかった時も多く励ましてくれた。「大丈夫、今は良い薬が沢山出ているから」と心が折れそうになった時も救ってくれた。
今、私は薬がとても良く効いて普通の生活を送ることが出来ている。他の人からは大病を乗り越えたとは、信じてもらえない程だ。いつもの場所にいつもより早い蕗の薹を見つけた時、命のはかなさと恵みを感じた。毎年、ここで見つける蕗の薹は、私にとって病院の先生と同じくらい大切だ。
いつもの場所にいつものように待ってくれている、そして私に命の大切さを教えてくれる、自然の営みを心に深く刻み、蕗の薹のほろ苦い味を噛み締めながら、もしかしたらこれは妹からの少し早い贈り物だったのかもしれないと思った。
「水の中はまるで別の惑星だなぁ」。
初めてスキューバで潜ったときにそう感じた。
そして、二年前に進行がんでもう回復出来ない事を告知されたとき、何故かこの水中の風景を思い出していた。
なんだか「死」がチラチラしている病に在る者は、水中に居るのと似ているかも。
音が消え、周りと会話ができない。人がたくさんいても孤独だ。足元も覚束ないし、風景はなんだか歪んでいる。
二年間、ずっとそんな中に居る。何だか人間関係も変わって、去って行った人もいるし新しく人生にかかわった人もいる。その中で忘れられないのは、彼女。
驚くほど明るくて、周りを豊かな光で照らすような人がいたことだ。
自身も体がつらいはずなのに、苦しいとも悲しいとも弱音を吐かず、いつも人の話をニコニコ聞き、相手のことも自分のことも、受け入れているようだった。
私は当時、自分のことで精一杯で、家族や友達に当たり散らし、我儘のし放題で、ホント嫌な奴だったのに、彼女の前では何だか素直になれた。正に暗い海に一筋輝く暖かい光のようだった。ひそかに、「女神」と呼んでいた。
今、二年たって彼女はもういないけれど、彼女の残した光は私の瞼に残っている。
私は性格悪くて、彼女みたいにはなれないけれど、せめてあの暖かい、優しい、いい匂いがするような光を何とか周りに伝えていきたい。
暗い顔をするのはやめよう。まだできることはある。そうやって明るい笑顔とか態度とか示すことができれば、暗い水の中だって、誰かが光と認めてくれるかも。
せめて今月。せめて今週。せめて今日だけでも。まだできることはあると信じたい。
私は大学院の博士課程で、『細胞のがん化はどのように起こるのか』を解明することへ繋がる研究をしている。
そんなある日、首にしこりがあることに気が付いた。そして、それが大きくなっていったので、手術による全摘出と検査を行った。
検査結果を聞きにいくと、あなたの病気は血液のがん、悪性リンパ腫です、と告げられた。半年前のことで、私は25歳だった。どれくらい進行しているのか、などはまだわからなかった。
遠方の両親に電話で伝えると。涙を堪えて、震えた声だった。おそらく私を心配させまいとしてくれているのだろう。母親は「しばらく休んでもいいからね」と言った。
私自身、病気のことですっかり元気を無くして、これから検査もあるし、しばらく休もうか、と思った。がんを告知された日は、病院から帰ってから、一人きりの部屋で、恐怖と不安で押しつぶされそうになって、朝まで眠れずに泣き通した。しかし、泣き果ててしまうと、全く違った感情が生まれた。なんでこんなに泣かされているのだろうかと、逆に腹が立ってきたのだ。そして、このがんという病気を、なんとかしなければという気持ちになった。
それから私は、検査や手術の合間を縫って、より一層、研究に取り組むことにした。私の研究は、がん治療ではないが、がんと密接に関連する内容だ。それならば、研究の方でがんと闘ってやろうと決意した。
この写真は、研究室の同僚が撮ってくれたもので、翌日から入院を控えた私だ。
入院から始まる本格的な治療はこれからで、どれくらい辛いことなのか、私はまだ知らない。もしかすると、気持ちが折れて、何かやろうという気力も奪われてしまうかもしれない。
私は、それでも諦めないだろう。必ず研究へ復帰し、写真のような日々を取り戻して、がんの解明に努力したい。
そして、同じように病気に苦しむ人へ、ささやかでも希望を与えられるようになりたい。
これが私の闘病だ。絶対に、負けないぞ!
余命1年と医師に伝えられた父と共に初めて一緒に病院に行った日、病院の中庭に桜の木があることを知った。
父に思わず言った「今年は一緒に見ようね、桜」
父は「うん」と小さく返事をしてくれた。
何でも面倒くさいと言う父と何かを約束するなんて何年ぶりだろう。ましてや花見なんて。
楽しい話をしたかった。病気以外の話をしたかった。何でもないことを話したかった。
楽しい未来の約束をしたかった。それはまだ年が明けて間もない寒い日だった。
一緒に見るだろう桜を想像しただけで幸せな気持ちになった。それは父も隣に居る母も一緒だったようだ。私たち3人は楽しそうに笑っていたと思う。
3ケ月前、夜が更けたころ、父が急に泣き出した。
私は生まれて初めて父親の泣いた姿を見た。それはきっと母も同じだったろう。
泣きながら体調の変化をポツリポツリと話す父に対して、ヤバい、ボケたか?って本気で思っていた。私にとって『癌』はまだ遠い存在だった。
『癌』という言葉が持つ威力は想像していた以上に両親の心を蝕んでいった。
不安という波はとてつもなく大きくて、深いところまで追いつめる。
父は日々、弱弱しくなり、母は日々、ヒステリックになっていった。
それでも少しずつ、治療に前向きになった頃、父は余命宣告を受けた。
手術は出来ないという事だった。癌を治すという事ばかり考えていた。
でも癌は治らない。治らないのなら、癌と共に生きていくしかない。
父の癌が見つかってから、私の環境は一変していた。もう癌は父だけのものではない。
私は、父の癌と共に生きていく、癌を知り、情報を得て、癌と上手に付き合っていく。
今できることは、全部したい。心が『助けて』と悲鳴をあげることもある。泣きたくなることもあるけれど、今はまだ泣かない。春はもうすぐだ。今年は寒暖差が激しい。
きっと桜が綺麗に咲くだろう。
第4ステージ末期の乳がんを宣告されたのは9年前のこと。
半年間の抗がん剤治療、手術、2ヶ月間の放射線治療を経験しました。
髪の毛や眉毛やまつ毛、毛という毛はすべて抜け、右胸と右腕のリンパを取りました。
癌の治療から9年、身体には多くのダメージが残り、元の身体に戻ることはなかなかできませんでした。それでも命のある限り生きてゆかねばなりません。
失ったものを嘆いてもしょうがない。
自分に出来ることをして生きてゆこうと心に決め、仏教画を描く仕事を始めました。
犬と私の二人家族、節約しながら昼も夜も絵を描いてインターネットで販売しました。
一枚の絵を描くのにたくさんの時間がかかっても、値段を安くして販売していたので生活は楽ではありませんでしたが、作品を購入してくださる方がいるととても嬉しい気持ちになり、また頑張ろうと思えました。仏教画を描くことは心の祈りです。
誰もが豊かで、健康で幸せな人生を歩めたらいいなと思います。
そう願っても、人生にはいろいろなことが起こり、辛いことや、悲しいことがありますが人がどんな状況の中でも頑張ろうと思えるのは、人の中に命の力があるからだと感じました。失っても残ったものは、命の力、がんを通して私が学んだことです。
人生は平等ではない。
そう思うようになったのは、32歳の時に若年性乳がんに罹患してからでした。
手術後、3年間の治療を経て安心したのも束の間、局所再発。
手術ができない場所へ再発した為、完治不能と宣告されました。
周りは結婚に出産ラッシュ。
自分だけポツンと取り残された気持ちになりました。
その後、骨や肝臓へ転移。
今では抗がん剤治療無しでは生きていけません。
やっぱり人生は平等ではないんだ…。
冬のある日、千葉県印旛沼へ日の出の撮影に行きました。
日の出と共に茜色に染まる空。沼に映り込む朝日。
「あぁ、なんて美しいんだろう…」。
あまりの美しさに涙が溢れてきました。
そして、この写真を撮っている時にふと気が付いたのです。
「がんだけど、今の私とっても幸せだ」。
私には大好きな両親がそばに居てくれる。
弟や友人、大切な人たちが応援してくれる。
まだできる治療があり、その治療を受けることができる。
体調が良い日には趣味の写真を撮りに行くことができる。
そしてこんなに美しい風景に出会うことができる。
他人の人生と比較していては幸せにはなれない。
私が幸せかどうかは私自身が決めるんだ。
自分の幸せを自分自身のものさしで測れるようになったら人生観が変わりました。
残り少ないかもしれない人生ですが、精一杯楽しみ、私なりの幸せを感じながら、一日一日を大切に過ごしたいと思います。
私が初めてあなたと出会ったのは、26年前になります。
あなたは19才でした。私はイラストレーションの通信講座の講師、あなたは受講生でした。
通信講座の課題制作において、あなたは決して上手とは言えませんでしたが、ある年に単身でブルガリアへ旅行し、その経験があなたの転機になりましたね。
帰国後の原宿で開いた個展に行き私は驚きました。
ブルガリアで出会ったという名も無い人々を描いたイラストを見て、私は大声で叫びたい程の感動を受けました。
とは言うものの、その本物の表現は個性が強過ぎる為に、すぐに仕事に繋がる事はありませんでした。それでも売り込みを続けていたあなたを病魔が襲いました。
大腸ガンでした。その後も胃ガンの手術をし、それも克服したと思っておりましたところ、定規検査の結果肺ガンが見つかり、摘出手術をし、又2度目の手術もしました。その後は手術が出来ないという事で只今は投薬治療中です。
投薬と休薬期間の、その繰り返しの中、会える時には会い、可能ならば酒も一緒に呑んでおります。
呑み会が終り、帰宅後にくれた「楽しい呑み会でした。ありがとうございました!」という私への感謝の言葉に胸が熱くなった事もあります。それで、私は今まで大きな勘違いをしていたことにハタと気付きました。それは絵手紙にも書きました様に、あなたを26年間見守って励まして来たつもりが、実はそうではなく、私の方こそあなたの生き方、生きる姿勢に励まされて来たのだ、という事です。親子程の年の差があり、講師であったという事ですっかり勘違いをしていた様です。いくつもの手術を乗り越え現在も肺ガンと向き合い戦い続けるあなたの前向きな姿勢に、心から感服致しております。私があなたの立場であったならば、とっくに白旗を上げ、やけを起こしていた事でしょう。正直に言います。とても敵いません。
これからもずっともっと私を励まし続けて下さい!
「白血病です」ドクターの四角い眼鏡が急に大きくなった。
ギュッと喉の根元が締まる。
えっと…前の年の検診では何もなかったけど?
自覚症状もありませんが?
まだ小学生の子ども達。離れて住んでいる親。
子育てでセーブしてたけどそろそろ本格的に再開しようとしていた矢先だった仕事。
思ってもなかった病名とたくさんの検査、これからのあれやこれやを考えると体が、頭が、心がパンパンで疲労困憊だ。
昔、ドラマかなんかで見た白血病の人には細くて色白で綺麗な若い人というイメージしかない。
私が? くそっ! テレビに毒されてるな。
「ドライブでもしようか」一緒について来てくれた夫が言う。
海へ。ありきたりだ。-海へ-車の中で会話も弾まない。
涙が溢れ出る。何の涙? わからない。
ありきたりの海は当たり前のようにそこにいた。波の寄せては返すリズムに真似て息をする。
いつの間にか固まっていた何かが解けていく。うん。海は広い。空も大きい。深呼吸が出来る。
夫がギュ~っと抱き締めてくれた。温かかった。嬉しかった。
ギュ~っとしてるとお互いから感情が流れ込んでくるのがわかる。
流れは合流し渦を巻いて次のうねりを呼ぶ。
-海だ-
そして今、私は笑っている。
ありきたりに。当たり前に。
2018年の幕開けはこうだった。
主治医「検査の結果、ステージⅣ、肝臓に転移が見つかったので手術はできなくなりました。“細く長く”生きていくための治療をしましょう。まず…」
私「分かりました。で、先生、走ってもいいですか?」
趣味はランニング。これまでに世界15か国、大小合わせて100以上マラソン大会に参加したことがある私にとって、走ることは生活の一部。
“細く長く”生きるための治療に「ストレスを溜めないこと」も含まれるのだとしたら、走ることも治療の一環という解釈もあながち間違っていない気がする。このときから生活の一部だった「走る」ことが「走る治療」に変わった。
抗がん剤の影響で髪の毛はみるみる抜け落ちたけれど、この個性的なヘアースタイルのおかげで友達に見つけてもらいやすくなったし、知らない人からも応援してもらえるようになった。走り終えた後のシャワーも頭から足の先まで一気に洗えてラクチンだし、風の抵抗が少ないからフルマラソンで自己ベストを更新することができた。
こうしてただがむしゃらに、ひたすらに、前へ走り続けた。その間に有効な分子標的薬が承認されるというおまけつきで。
「オリンピックまで生きられるかな」とつぶやいたあの日から2年、抗がん剤を休薬してホルモン治療と分子標的薬治療が始まる。“細く長く”を臨むようになってきた。がんが大きくなるかもしれないという不安と背中合わせだけれど、一生付き合うチャームポイントみたいなものだから。そう『がんは私の一部であって、私のすべてではない』。
人生100年時代、自分の人生をフルマラソンに例えたらちょうど半分の21キロ。もうしばらく走り続けたい、乳がんステージⅣ最速ランナーを目指して。
お父さんは私の幼い頃からあまり口数の多い人ではありませんでした。
しかし、ごはんを食べる時は家族でいつも一緒、私の話を笑顔で聞いてくれました。私が子供の時お父さんは仕事上出張が多く、家に帰った時「お土産だぞ」と言って、日本各地の美味しい食べ物をたくさん買ってきてくれました。時折2人で出掛けた時は、お父さんのよく行く喫茶店で私の大好きなパフェを毎回食べさせてくれました。私が大人になって仕事上他県に行った時も「あそこはお寿司が美味しいぞ」「お父さんはよくラーメンを食べたぞ」と嬉しそうに話してくれました。その後。すい臓がんということが母からの電話で知りました。久しぶりに家に帰った時、「おかえり」と言って、変わらず一度も私の前で悲しい顔や弱音を言わなかったお父さん。
数年後、私の結婚式の時、お父さんの体調が奇跡的に良く、ずっと…笑顔で私を見守ってくれました。
お父さんとの思い出、色鮮やかな美味しい食べ物と共に、私からお父さんへ
「ずっと感謝、お父さんに花束を、ありがとう」
それはまさに青天の霹靂でした。
主人が亡くなって二人の娘と力を合わせて、生きていこうと決心した矢先の事、今度は私に腫瘍が見つかったのです。すぐに手術しましたが、結果は悪性で、転移を繰り返す厄介なものでした。
それからはCTを撮って様子をみる生活でしたが、やはり再発を繰り返し、手術、放射線治療、化学療法、温熱療法と続きます。会社に勤めながら、頑張るつもりでしたが、抗がん剤の副作用の辛さから、去年退職しました。
それまで、趣味もなかったので、退職を機に何か出来る事をと思い、見ることが好きだった絵を習うことにしました。そしたら、自分でも驚くほど描くことが楽しくて、希望となっています。そんな折、こちらの企画を知り、応募しようと思いました。
テーマは「美しく生きる」
死の恐怖、手術の苦しさ、抗がん剤の辛さなどいろいろなことを考えると、絶望の淵に立っているようで辛くなる時があります。
でも、人は早い遅いはありますがいつかはこの世に別れを告げるのです。
だとしたらこの鳥のように美しく生きて行こう。凛として静かにそしてたくましく。
落ち込んでなんかいられません。今、生きていること、支えてくれる人達に、感謝しながら、そして振り返った時、恥じることのない人生にしたい。そんな思いをこの真白い孔雀や花々に込めて描きました。
何より大切な二人の娘たちにもそうして生きてほしいと願います。
19歳の専門学校生のとき学校の健康診断で影が見えるから精密検査をするようにと言われました。すぐに紹介された病院へ行くとCT検査を受け、腫瘍があると言われました。私は「腫瘍...それは癌なのか。」と疑問に思いましたが、細胞を採らないと結果はわからないとのことでした。
入院し手術をすると退院間際に主治医の先生から、「血液の癌です。退院して抗がん剤の治療をしていきましょう」と告知されました。癌の疑いで入院しているにも関わらず、まだ二十歳にも満たない私は頭が真白になりました。よくわからなくてインターネットで病気を検索すると、その病気は悪性腫瘍でいわゆる癌だということがようやくわかりました。
さらに検索していると抗がん剤、脱毛、5年生存率...などという言葉が出てきて、もう私に未来はないんだ、結婚はできないな、死ぬのかな、と思っていました。考える暇もなく治療が開始され「もし次に癌になっても治療はしたくない」と思わせるほど、抗がん剤は想像よりも辛いものでした。そんな辛い治療が半年続き、治療は終了しましたが周りには自分が癌だとは言えませんでした。その後は半年に1回受診し、ようやく癌発症から5年が経ち病気は完治となりました。
病気が完治してから自分の中で何かが変わったのか。自分が癌だったことを周りに言えるようになりました。そんな中、職場の先輩と付き合うようになりました。彼女は仕事面でも尊敬できプライベートでも自分にはない発想を与えてくれます。病気のことも伝えましたが「そんなことは関係ない」と言われプロポーズも受け入れてくれました。昨年の秋に挙式も無事に挙げることができ「この人とずっと一緒にいたい」と思います。今後何があろうとも必死に生き、彼女を追いかけ一緒に歩いていきたいと思います。あの時頑張ったから今がある、この先の未来があるんだと思います。癌に学ばされ、これからは癌とともに生きていきます。
私の左のおっぱいは私を離れ、先に神様のもとへ行きました。三人の子供たちに、よく尽くしてくれた私のおっぱい。手術から四年たちましたが、今でも怖くて、ちゃんと胸を見ることはできません。好きだった温泉にも、まだ入る勇気が持てません。でも私のおっぱいは切除されたのではなく、ウインクしているんだ!と思うと、なんだか愛嬌があって愛しく思えてくるのです。
病気のために体の一部や機能を失う人は、少なくありません。命と天秤にかけられたら、悲しいけれど誰もが同じ選択をするでしょう。しかし、命と引きかえに『捨てた』とは思わないでほしいのです。たとえ切り離されても、それが私自身であることに変わりはありません。これまで一生懸命に働いて、役に立ってくれた私の大切な一部。だから私は『先に神様に納めた』と考えたいのです。いつかまた私と合体するその日まで、ゆっくり休んでほしい。それが私の感謝の気持ちです。
神様のもとで私を待っていてくれるおっぱいに、たくさんのみやげ話を持っていってあげたい。いろんな体験やチャレンジを、聞かせてあげたい。そして「あなたがいなくても、私は生き抜いたよ」と報告したい。私のおっぱいはきっと「ここからちゃんと見てたよ」と言うでしょう。私がおっぱいと再会するそのときは、必ず笑顔でありたいと思っています。
私が舌癌、それも頚部リンパ節への転移の疑いのあるステージ4であると診断されたのは、2015年4月、35歳のときのことであった。当時長男は2歳8ヶ月、次男は生まれたての0歳3ヶ月。幼子二人を抱えて目の前は真っ暗になった。たいていの嫌なことは寝て起きれば忘れてしまうが、この病気のことだけは、何度朝を迎えても、ずっと覚めない悪夢を見続けているかのように頭から離れなかった。
舌の患部の切除、首のリンパの郭清、舌の再建もあったので手術時間はとても長く12時間を越えた。舌、首、手首、腹と、体中にメスが入った。術後はまた辛い日々であった。意識が朦朧としていて、体も全身麻痺していて動けない。昼間は起きておくよう言われても難しかった。そんなとき弟が差し入れてくれた紙と鉛筆で絵を描き始めたら、急に頭が冴えてきた。HCUを出て一般病棟に移動した頃、病理検査の結果が出て、リンパ節への移転はなかったと伝えられた。本当に嬉しかった。その後の二ヶ月近い入院生活の後半は、色鉛筆で花の絵を描いて菓子箱などで額を作り、同室の患者さんやリハビリの先生方、そして主治医の先生にプレゼントするのが生き甲斐になった。
私は元々油絵画家を志していたのだが、第一子の出産以来休筆していた。けれどこの病気をきっかけに小さな色鉛筆画を描き始め、そして2016年4月の熊本地震のあとには、大きめの水彩画に挑戦するようになった。沢山の人たちの力で繫がれたこの命を、絵という形で結晶化させたいという思いが原動力であった。大切な人たちの手元に、私が生きた証(絵)を残したいという思いもある。
花の命は短い。この絵の薔薇も既に枯れてしまってもうこの世には存在しない。しかし、それが不幸なこととは思わない。心明るく上を向いて、今にも咲こうとするこの蕾のような瑞々しさで生を全うしたいと願い、この絵を描いた。
数年前から肺気腫で治療中でした。昨年四月上旬のレントゲン画像で一昨年の画像と比べて微細ながら異変があると言われ、勧められるままに受けたPET検査で肺ガンの疑いが濃厚と診断されたのが昨年4月25日。考える間もなく同28日に切除手術を受けましたが、既にリンパ節にも転移していました。
もともと肺気腫で息苦しさがあった上に肺の一部がなくなったので想像を絶する息苦しさに苦しみましたが、それでも在宅酸素だけはなんとか避けたいので、入院中は1階から10階の階段を使って自主トレをし、退院後は毎日カメラを持って出かけ、息苦しくてもリハビリと思って足が棒になるまで歩き回りました。
そんなある日、奈良国立博物館の横でバッタリと至近距離で出あったのがこの鹿です。慈愛に満ちた気品のある優しいまなざしにしばし息を飲み、思わずシャッターを切りました。
以来この写真を持ち歩いて朝な夕なに眺め、大いに癒されました。月に2回の抗がん剤の投与のたびに襲ってくる例えようもない副作用の中にあっても、この鹿がいつも優しく見つめていてくれました。この副作用から脱したらまた奈良公園に行きたい。この鹿に会いたいとばかり考えておりました。
昨年末に受けたPET検査では再発も転移もしていないと言われましたが、2月の血液検査では腫瘍マーカーが若干上がっていると言われ、これから先のことは皆目わかりません。
それでも僕と同じようにガンで不安な苦しい日々を送っておられる多くの方々にもこの写真を見ていただき、心安らいでいただければとても幸せだと思い、このコンテストに応募しました。
「もう新しい靴はいらんから」
2012年3月の午後、母は、最寄りのデパートの広告を眺めながら言った。あきらめとは違う、深い悟りのようなものを漂わせていた母の言葉に、私は一抹の寂しさを感じた。今まで元気で働き者だった母が、数ヵ月続く腹部の違和感に不安を覚え病院に行くと、担当医から、ステージIIIに近い大腸がんと診断され、即刻、腹腔鏡手術を勧められた。予防接種でさえ嫌がる母にとって、そのショックや恐怖感は相当なものだったろう。
お洒落大好きな母の目を引いた、店頭のパステルカラーのパンプスも、母の購買欲をそそらなかった。一瞥しただけで、「もう靴を履いて歩くことはないし」とつぶやいた。
手術の朝、母を手術室に見送り病室で家族と過ごした14時間は、果てしなく長かった。全身麻酔でぐったりした術後の母が運ばれてきたのは、すでに病室の消灯直前だった。身体にもつれるほどたくさんの点滴のチューブが、棘のように身体中に刺さっていた。その状態で、母は両の掌を天井に向かって上げてグゥパァをしていた。この、母の、大丈夫だよという精一杯のサインを目にした私たち家族は、一瞬にして安堵に変わっていった。ゆっくり麻酔から覚めた母は私たちを認識して、口元にうっすら笑みを浮かべていた。
「お母ちゃん、痛いことはないの?」切羽詰まった声で尋ねる私に、母は小さく頷いた。翌日からは、持ち前のパワーで先生も驚くほどの快復力を見せていった。大きく成長したがんだったが、念のためと切除したすべてのリンパ節に転移は見られなかったことから、ステージIIと正式に診断された。
術後五年目に入る母は、病気という檻から解き放たれて、自分の身体と真摯に向かい合っている。何かに糧を持ち、小さくても希望を持って、明るく生きているのだ。
「新しい靴を買いに行こうかな」と私に向かって笑いかける母に、笑顔で大きく頷いた。
高校卒業と同時に北海道の大学に進学した私がホームシックになった時、
母が「これでお母さんが見たことのない景色を撮って見せてね。」と買ってくれたのが、私とカメラとの出会いでした。
そして、その年の暮れに母の乳癌が見つかりました。
辛い治療に耐える母の様子を姉から聞かされ、遠くに住む僕は母に何もしてあげられない無力さを感じていました。
そんな私に対し、母は「Kの撮っている景色を、私もこの目で見たいから、頑張って治して元気になって北海道に行く。」と言いました。
私の写真を楽しみにしている母。
私は、写真を撮ることで母の力になっていると思いたくて撮影に没頭していました。
今思えば、そう言っていたのは、無力さを感じる私を思っての母なりのやさしさだったのかもしれません。
「抗がん剤による脱毛も左胸の手術の痕も、今になってみれば全て武勇伝よ。」と笑えるぐらいに元気に回復してくれました。
そして、北海道の雄大な景色を見るために旅行もできるようになりました。
今でも私の写真が生きる力になると話す母。
「母に健康をありがとう。」と
私は今もこの1枚が誰かの力になればいいと願いながらシャッターを切っている。
がんと診断されて、あっという間に臓器摘出手術。医師の素早い判断と的確な施術。術後高熱を出したときの看護師さんたち。食事を持ってきてくれる職員の皆さん、退院後、通院生活になると毎回採血してくれるベテラン検査技師。相談室の相談員さんに話を聞いていただき、薬局で高額な治療薬を処方してくれる薬剤師さん。待合いのひと時を過ごす喫茶店。再発した状態を検査する放射線技師。駐車場の警備員さん。病院でボランティアを始めた時にお会いした院長先生。そこにいらっしゃるMRの皆さんの長い列。入院手続きや文書を整えてくれて、複雑な計算をしてくれる事務の方々...まだまだ書ききれない、いろんな「びょういん」の人たち。もちろん患者仲間も。
本当に、がんにならなければ出会わなかったたくさんの人たちに出会いました。脳転移を手術で摘出した時は、死を覚悟したけれど、みんなで救けてくださいました。点滴漬けで過ごした日々、ICUで過ごした夜、支えてくれたのは友人家族だけでなく、多くの、そして色々な職種の方々のチームワークでした。
皆さん、背景も毛色も性質も...全く異なる動物たちのようにバラバラでユニークだけど、みんなで「びょういん」を作っています。
病気と闘うだけでなく、みなさんとの出会いが今、がんがわかって6年経ってとても大切なものになっています。
すっかりなじんでしまった「びょういん」に愛着と感謝の気持ちを込めて絵にしてみました。
こんなことを言うのは変ですが、「びょういん」が居心地のいい、第2のおうちになってしまっています。いけないけれど、いいですよね?
辛い闘病生活にせめて、明るく過ごせる場所であって欲しいという願いを...。
これからもいつもの「びょういん」であって欲しいと思います。
必死に闘ってきた乳がんが落ちつき、がんと共に生きることが日常になりつつあった2015年夏、私にとってふたつめとなるがんが発覚した。
二回の手術を経て、あんなに嫌でしかたがなかった抗がん剤を八年ぶりに受けなくてはいけなくなってしまった2016年春、乳がん体験者によるファッションショーのモデル募集を目にし迷わず応募。この時、当選したあかつきにはスキンヘッドで出ようとひそかに決心していた。
がんと告知されたときよりも、副作用がつらくて寝こんでいたときよりも、何よりも辛く嫌だったのが脱毛。このせいで頭が痛くなる程泣いたし人前に出るたびにおどおどしている自分がいた。治療が終われば必ず元に戻ると言われていたけれど、私の髪は薄いままでウィッグは八年たっても必需品。後から治療を終えた仲間たちがウィッグを卒業していく姿を複雑な思いで見ていた。脱毛というコンプレックスをずっと引きずっている自分と決別したかった。
モデル当選の通知を手にし、スキンヘッドでランウェイを歩きたいという希望を温かい拍手とともに受け入れてもらってからは、あんなに嫌で嫌でしかたなかった坊主頭の自分を鏡で見るのが楽しくなった。坊主頭が愛しくてしかたなくなった。
ファッションショー当日はいろいろな思いが入り混じって泣いてしまうかなと思っていたが楽しくて始終笑顔だった。
がんになって脱毛する-悪いことをしているわけではないのにこそこそしていた昔の私。当時の自分に「大丈夫だよ」と言って抱きしめてあげたいと今は心から思う。
ステージ4の直腸がんと診察されてから、早いもので5年以上が経過しました。
この頃の僕は、こんな言葉が、大きく聞こえるようになっていました。
『生きる気力』
しかし、生きる気力とは、どのような「気力」を意味するのかわからず、また、今まで普通に暮らしてきた僕にとって、あまりにも漠然とした言葉に思えたのです。
そんな中、子どものころのアルバムを眺めていると、いろんな記憶が思い出されてきたのです。
三輪車を逆さにして、車輪に石を入れ、ただ夢中にガラガラと回して遊んだこと。
近所の子たちと一緒に、草や石を集め、ゴザに並べ遊んだこと。
あてもなく自転車をどんどん進め、暗くなって帰宅。そして母に怒られたこと。
図工の時間、紙いっぱいに、だるまの絵を描き、先生にとても褒められた記憶・・・。
あの頃は、夢中になって遊び、また、ワクワクと真っ直ぐに自転車を進めていたのだと思う。そして、下手でも夢中になって絵を描くことが楽しかったのだと思う。
しかし、いつからか、他の人と比べ、自分は無理と、止めてしまったことがたくさんあるのに気づきました。
そして、これが「生きる気力」へのヒントではないかと感じてきたのです。
ワクワクと夢中になることに、他の人と比べる必要はなく、自分の気持ちに正直になる。
そして、それに、一生懸命に向かい合い、夢中になること。
それが、生きる気力につながるのではないか・・・・・と、
明確な答えは見つかっていませんが、あっという間に、5年が経過しました。
そして、今では、がんのことで不安に思うことも少なくなったように思えます。
『生きる気力』
子どものころのワクワク、夢中になったこと、思い出してみるといいのかもしれません。
たくさんの「生きる」ヒントが見つかるように思えます。
姪を癌で亡くしました。脳に悪性の腫瘍ができ、見つかった時にはもうステージ4。余命一年の宣告を受けました。
頭痛を訴え、歩けなくなって、突然のことに家族はうろたえ、悲しみ。本人は奪われた自由と周囲の態度の変化にブスリと腹を立てているような様子でした。
大切な家族、その上、幼い8歳の女の子に、こんなことが起きるなんて、暴力的でもあり、天災のようでもあり、とても受け入れられません。世界の色が変わり、泣いたり、もしももっと早く病気に気づいていたらと後悔の気持ちで心はグチャグチャに乱れました。
放射線治療を受け、彼女は奇跡のように歩けるようになりました。回復は一時的で、いずれ全ての機能がゆっくりと失われると聞かされてはいましたが、淡い期待を皆せずにはいられませんでした。
私は近くに住んでいなかったので姪に関わる機会は今まで多くなく、それを埋めるように会いに行きました。似顔絵を贈り、一緒にケーキを作り、買い物に行き、彼女のかわいい笑顔を見ました。このまま治れ!!と誰もが神様に祈りました。......なのに再び彼女は歩けなくなり、言葉は失われ......。
看護師さんは言いました。「頭の癌は他の癌と違い、痛みがないから神様の贈り物だ」と。
でも、きっと感覚が失われて行くのが、とてもとても怖かったでしょう。葬儀の時、弟が言いました。彼女が「お父さん、私ね......」と言いかけてやめたこと。弱音を全く言わず去って行きました。彼女の驚くべき優しさと強さだと思います。
私はこの不幸で昔好きだった絵を再び描くようになりました。他の皆に残った遺産を私は知りませんが、優しくなれたり、前より日々を大切に思っていると感じます。
彼女の懸命の戦いが、その命の煌きが、関わった全ての人の心に温かく残っています。
今年で、私は社会人10年目、母はがん闘病10年目を迎えます。明るく気丈な母は、昨年転移が見つかったときも、私へすぐには伝えませんでした。1人で検査結果を受け止め、治療の説明を聞き、入院の日取りを決めてしまいました。後からどうしてか聞くと、私が医療関係の仕事をしているので、「詳しく知っているぶん、深刻に受け止めちゃったら可哀想だと思ったから」と言われました。
それからしばらく、私の心には、ある葛藤がありました。「母にもしものことがあったらどうしよう」と不安に思う気持ちは、「私のために、いなくなられたら困る」というただのエゴなのではないか――。30歳も過ぎ、自立した大人でなければならないのに、精神的に母を頼りにしていることに気づき、自分を情けなく思いました。
そんな私に人生の大先輩が大事なことを教えてくれました。
「不安に思うのは、エゴじゃなくて愛だ。お母さんはまた元気になるけれど、愛がある限り、あなたの不安はなくならないんだよ。」
この言葉で、胸の奥の葛藤がスーッとなくなりました。不安な気持ちも“持っていていいんだ”と許せるようになったのです。
治療を終え、母は元気を取り戻し、家族みんなで栃木県の日光東照宮に行きました。絵手紙には、そのときの思い出を胸に、国の特別史跡で特別天然記念物である日光杉並木をおさめました。
日光杉並木の前で、母はおもむろに「“病気が治りますように”とは祈らなかったよ」と言いました。いつも通りの笑顔で、悲しい響きではありませんでした。
実は私も、「母の病気を治してください」と祈ったことはありません。
「母の幸せな毎日が、この先もずっと、ずっと続きますように。」
それだけです。母ががん患者だから気がかりなのではありません。どんな母でも、愛がある限り、私は心配し続けます。きっと、母も一生、娘の私のことが心配でたまらないように......。